生ける伝説の「孫」になって
 私が話を聞いた、金東植・元工作員が李と同居を始めたのは、それからさらに10年ほど後の、1990年だった。彼は私にこう語った。

 「私は1990年に、ソウルで李善実と半年間一緒に暮らしました。彼女は当時75歳。私は20代だったので、祖母と孫を装いました。

 李善実は当時、すでに北の権力序列で19番目。しかも政治局候補委員でした。もう10年間も南(韓国)に浸透して活躍した、生ける伝説でした。個人的な会話を交わす関係ではなく、彼女の隣の部屋にいて、お世話をさせていただいていました」

 同居中の金元工作員の主な任務は、本国の工作本部への連絡だった。

 城南市内に「盆唐(ブンダン)中央公園」がある。都心ながら42万㎡もの敷地を誇り、かつての王宮を再現した場所もある有名な公園だ。そこにある丘の中腹には、韓山李氏の墓があるのだが、そこが通信機器を隠しておく場所だったという。

 「深さは20cm。超短波のトランシーバを埋めて、その上に目印の石をおきました。

 1ヵ月に一度、決められた日時に、3桁の暗号数字を打ち込んで工作状況の報告をしました。指示を仰ぐことが多かったように思います。

 例えば、政府要人の包摂(=ポスプ。味方として取り込むこと)がうまくいっていないとか、仲間の工作員の所在が確認できないとか……。

 通信は一方通行ですから、本部からの指示はラジオ電波で5桁の乱数放送で飛んできました。『この乱数はメモを取ってはならない。頭に叩き込め』と教わっており、記憶して換字表で文章に変換しました」

秘密道具から、戦争並みの重火器まで
 工作員には、通信機器や偽造身分証明書の他に、必携の道具があったという。

 「消音機付きの拳銃、手榴弾、そして毒銃器を持っていました。

 この毒銃器はパーカーの万年筆の形をしていました。その中に毒が塗られた弾丸が1発だけ入っていて、2~3mの至近距離から発射して命中すれば、相手は毒が回って死にます。

 万年筆の後ろの部分をまわして、ボタンを押すと発射される仕組みでした。誰にも知られずに人を殺すことができる。そんな道具です。

 そしてもう一つ必ず落ち歩かねばならないのが、自殺用の毒薬アンプルです。ボールペンの先に青酸カリ入りのアンプルを仕込んでおいて、捕まりそうになったらそれを噛んで死ぬようにと言われていました」

 まさにスパイの「七つ道具」といったところだが、北朝鮮工作員たちが扱うのは、こうした小型の秘密道具ばかりではない。

 2001年、九州南西海沖で北朝鮮の工作船が海上保安庁に発見され、銃撃戦の末、沈没した事件があった。このときに工作員らが所持していた武器は以下のようなものだった。

 5.45ミリ自動小銃(4丁)、7.62ミリ軽機関銃(2丁)、14.5ミリ2連装機銃(1丁)、ロケットランチャー(2丁)、82ミリ無反動砲(1丁)、携行型地対空ミサイル(2丁)。

 工作員たちは戦争並みの重武装で日本近海にいて、躊躇いもなく海保の船を攻撃したのである。これらの武器を、彼らが日本国内に持ち込もうとしていたのかどうかは、明らかになっていない。

そもそも、工作員とは何者なのか
 金元工作員の話を続ける前に、まず彼らがいったい何者なのか、概要をご説明しておこう。

 北朝鮮では、すべての党、軍の諜報機関が「朝鮮人民軍偵察総局」という軍直下の諜報機関に再編成されている。

 偵察総局は6つの局からなる

 1局(作戦局)は工作員の浸透、養成を担当。海州や南甫、元山などに会場からの浸透のための連絡所を運営。

 2局(偵察局)は韓国への工作員派遣や軍事作戦を担当。

 3局(海外情報局)は国外での諜報活動と破壊工作を担当。

 5局(会談調整局)は韓国との交渉を工作、交渉技術を研究。

 6局(技術局)はサイバーテロを担当。

 7局(支援局)はすべての局の業務を支援している。

 日本がもっとも警戒すべきは、工作員の浸透を支援する1局と、対日工作員が所属する3局だ。3局は、かつて日本人拉致などを行った朝鮮労働党情報調査部(35号室)の業務を引き継いでもいる。

 偵察総局の工作員は、高級中学校を卒業した17歳以上の若者から選抜される。選抜と言っても志願ではなく、スカウトが基本だ。その人選の条件を金東植・元工作員はこう語った。

 「大事なのは頭脳です。これは持って生まれた素質が大きく、鍛えようがない。次に肉体です。両方を兼ね備えてないと工作員にはなれません。次に出身成分(生まれのこと。親が党幹部であるかどうかなどが、子供の将来を大きく左右する)、その次が容貌です。

 背が高すぎても、低すぎてもいけない。顔が不細工で嫌悪感を与えるようではダメですし、ハンサムすぎてもいけない。要するに平凡な見た目であることが必要です。

 でも、現場に出てみて一番大事だと思ったのは、臨機応変な行動が取れることでした。いくら頭脳や肉体が優れていても、想定外の事態が起きたときにパニックを起こして対処できない者が多いのです」

死者も出る地獄の訓練
 工作員候補生は「招待所」と呼ばれる訓練施設で、「最高指導者の爆弾」となるための忠誠教育を受け、主体(チュチェ)思想を叩き込まれる。

 金日成が唱えたこの思想は、人民が自主性を維持しながら革命をやり遂げるには、絶対的指導者に服従することが必要だと説く。つまり、最高指導者への忠誠心こそが、人民のためになると繰り返し頭に刷り込まれるのだ。

 こうした基礎的な忠誠教育ののち、若者たちは金正日政治軍事大学に入る。ここでは潜伏先で必要となる語学はもちろん、想像を絶するレベルの肉体鍛錬を課せられる。

 私がインタビューした金元工作員は「思い出したくないほど辛かった」と言いながら、その具体的な内容の一部を教えてくれた。

 「最初は水泳訓練です。いきなり貯水池を8km泳げという。淡水を泳ぐのは厳しいですよ。あとは30kgの荷物を担いで、冬の毎夕、数十km走り続けながら訓練をする。寒いときは苦痛でした。

 このほかに、素手で戦う格闘訓練は『撃術』と呼ばれていて、ものすごい回数をこなしました。現場では相手の制圧、拉致などもしなければなりませんからね」

 他にも幾人もの元工作員に取材をした結果、訓練メニューには以下のようなものがあったらしい。

 (1)班ごとに交替で60km泳ぐ遠泳訓練
(2)集団で魚雷を引っ張って泳いで目標物を爆破する訓練
(3)高速で走る列車の上を走りながら射撃をする訓練
(4)ひとりで15人の敵と戦って勝つ訓練を1日3時間
(5)浸透前には射撃訓練を3000回以上
(6)3日間休まず歩く「千里行軍」

 途中で脱落する者だけでなく、戦闘訓練中の事故や、疲労や熱中症で死亡する訓練生も多いという。

完璧に「日本人」を演じるために
 教育課程の中には日本人化教育もあって、訓練生は日本人になりすますために語学や生活習慣、文化などを学ぶ。各地方の方言や文化などを叩き込むのだ。

 「言語は標準語以外に、方言をひとつ選択します。そのほか政治、経済、文化はもちろん、芸能・芸術まで学びます。たとえば、ドラマは何が有名で、どんなストーリーで、どの俳優が好きで、テーマソングは何だったか、まで知っていなければならない。若い工作員は、若者に溶け込まねばなりませんから」

 「日本人化」の講師は日本から拉致された人物や在日朝鮮人の帰国事業で渡っていった日本人妻だ。

 ある山の地下にある訓練場には、日本の街を模した「日本村」もあり、訓練生はここでロールプレイングを繰り返したという。

 こうした訓練を受けた上で、日本人の身分を与えられて送り込まれるから、工作員は日本社会に完全に浸透することができる。そして電波やインターネットを使った暗号で、本国からの指示を受けて活動するのである。

 工作員は肉体、知力両面での鍛錬を潜り抜けた後、対象国に派遣されるのだ。

 話している途中、金元工作員は、ズボンをまくって脚を私に見せた。そのふくらはぎは筋肉が隆々と盛り上がっており、常人とはかけ離れたものだった。

 「訓練はしんどかったけど、工作員という職業はやりがいがありました。私にはこの仕事が合っていたのだと思います。

 でも、私は工作員になりたくてなったわけではありません。労働党から重要な業務をやるようにといわれて、それを受け入れただけです。そもそも北では個人の希望で選定することなんてできないのですから、党に『やれ』と言われれば、その指示に無条件に従うのです」

 戸惑いながらも、愛国心と忠誠心を焚き付けられたエリートの若者たちが、工作員として敵国への潜入任務につく。

 次回は、実際に彼らがどのようにして日本に潜入してくるのか、そして祖国・北朝鮮とはまったく違う自由な社会に触れて、どう感じているのかに迫りたい。
 (つづく)

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