交渉過程の検証は大失敗
 しかし、朴槿恵大統領が弾劾され、2017年に次期大統領を決める選挙戦が始まると、文在寅を含め主要候補の全ては、
日韓合意の見直しを公約に掲げました。先ほども述べたように、この合意への韓国国民の根深い不満があったからです。
しかも朴槿恵大統領を弾劾した勢いで「悪い朴槿恵がやったことは全部やり直せ」という「正しい」意見が出来上がっていました。

 この国民の「正しい」声を受けて、文在寅政権は正義の名の下に「日韓合意」という法を変えようとした。
しかし、何の理由もなしに破棄はできないので、その理由を見つけ出そうと合意過程の検証を行うことにした。
最も望ましいのは、交渉過程における日本側の瑕疵(かし)をあぶり出すことですが、最初からそれは難しいだろうと思われていました。
明確にあったのは、韓国内部の手続きに致命的な問題があるのではないか、という期待でした。

 合意の時点で存命の元慰安婦は、47人いました。そのうち34人が、昨年末までに和解・癒やし財団を通して1億ウォン(約1000万円)を受け取っています。
その事実は、反朴槿恵である進歩派と元慰安婦支援団体にはショックでした。
当事者の元慰安婦たちがお金を受け取ることは、彼女らが日韓合意に必ずしも強く反発している訳ではないことを意味しています。
合意への反対運動をしている人々にとっては、梯子を外されたも同然です。

 95年のアジア女性基金のときには、61人の元慰安婦が日本からの「償い金」を受け取りました。
しかし、この元慰安婦の行為は韓国世論からの激しいバッシングを浴びました。
支援団体は、お金を受け取った元慰安婦の名前を公表した上、直接電話をかけて「民間基金のカネを受け取ることは、売春婦だったことを自ら認める行為だ」とも非難した。

 しかし、今回の日韓合意では、韓国の外交部や日本が拠出したお金を元慰安婦に渡す役割を担う和解・癒し財団の努力もあり、34人の元慰安婦がお金を受け取りました。
それに対する世論の批判も、ほとんどありませんでした。韓国社会はいつの間にか変わってしまっていた。

 そこで支援団体が考えたのは、元慰安婦たちは騙されたに違いないということでした。
平均年齢が90歳を超えたおばあさんに細かい法律的な説明をしても、理解してもらえる保証はありません。
1億ウォンを持って行って、押し付けたケースがあるだろうと見込みました。

 もし、騙してお金を受け取らせたとなれば、話は違ってきます。
そこで調査を始めたのですが、結論から言うと、彼らの望んだ通りにはなりませんでした。
和解・癒やし財団は、元慰安婦のおばあさんたちと交渉する様子の記録を撮っていたからです。
あとで揚げ足取りをされないように、「この金はこういうお金で、こういう手続きです。
あなたは受け取りますか?」というやり取りを証拠に残していたのです。

「正しい」民主主義を追求し、法よりも正義を優先させ、日韓の外交交渉の過程を公表してしまったことは、
今回の日韓合意「新方針」発表に関わる大きな失敗だったかもしれません。なぜなら、それにより韓国外交の国際的な信頼性が極端に損なわれてしまったからです。
「正しい」ことをしているのだから全部オープンにすればいい、と韓国流に考えたのでしょう。
民主主義の理想としては美しいのですが、外交でこれをやると交渉は難しい。
「では、軍事機密も全部オープンにするんですか?」ということになりかねない。

慰安婦記念日という時限爆弾
 では、日本は民主主義や法と正義について正反対の考え方を持つ韓国とどのように付き合っていけばいいのか。

 まず、認識すべきは、文在寅政権にとって、慰安婦問題の優先順位は決して高くないことです。

 1月10日に文在寅大統領が年頭の記者会見をしました。日本では、日韓合意と南北首脳会談についての件だけがニュースになりましたが、
実際の演説は冒頭から延々、経済問題が続きました。次に憲法改正の話が出て、そのあとにようやく南北対話。その後、平昌五輪にも触れて、
終わり近くになって、ようやく日韓合意の話が入りました。このように日韓外交における慰安婦問題の占めるウェイトは現政権にとって軽い。
であれば、向こう側が重視していないこの問題を日本がわざわざ取り上げる必要性は小さい。

 文在寅大統領の慰安婦合意に関わる年頭記者会見を丁寧に意訳すると、「日本が真実を認めて心からの謝罪をしないと、
元慰安婦のおばあさんたちは許してくれないので、真の解決にならないと私は思います」という表現です。
つまり、思うだけであって要求はしない。奇妙なロジックなのですが、それにより不満を表しつつも、合意は維持するという形を取っている。

 彼らが巧みなのは、ここで「新方針は日韓合意の事実上の破棄だ」という解釈を与党筋に流させていることです。
政府が言えないから、与党を使ってイメージを作り、世論を上手く丸め込んだ。ある情報筋によれば、
文在寅政権の合意の破棄や再交渉をしないという基本方針は、すでに昨年9月頃には決まっていた。
そこから3カ月かけて、このロジックを準備した。公約を実行しなければ野党から責められる。
だから早めに「損切り」を行ない、日韓合意の事実上の「棚上げ」をしたのが今回の「新方針」だ、というのが私の理解です。

 繰り返しになりますが、破棄しなかった以上、日韓合意は生きています。
しかも、韓国政府は「破棄も再交渉もしません。
ただ、慰安婦のおばあさんたちは真の解決を求めています」という一線までしか言えないことを自ら明かすことになりました。

 だから日本は今後もこれまでどおり日韓合意の履行を韓国に粘り強く求めていくことができる。
これは議論のスタートラインとして、とても大事です。

 しかし、同時に留意しなければいけないのは、日韓合意には「日韓両政府が協力し、全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復、
心の傷の癒やしのための事業を行うこととする」という一文があることです。
韓国から「新方針」というボールを投げられて、日本がそれに一切協力しなければ、韓国は「合意の精神は失われたので、日本が事実上慰安婦合意を破棄した」
というロジックで迫ってくる可能性もあります。

 もうひとつ時限爆弾があります。韓国政府は8月14日を「慰安婦の日」と決めました。
まだ具体的には何も決まっていないと思いますが、今年の8月14日には、その第1回の式典が開かれるでしょう。
そこには日本政府なり日本大使館も招待を受けるはずです。そこに誰が出て行って何をするのかが、次の焦点になります。

 在外日本公館の目の前にある少女像についてはどうすればいいのか。
それを撤去しないのは、約束違反だと言う人がいますが、日韓合意を虚心坦懐に読めば、撤去はやはり「努力目標」でしかない。
だから韓国にその「努力」を繰り返し求めるしかありません。

 ただそれもあくまでソウルや釜山の在外公館の前に立てられている銅像についてのみの話です。
韓国以外に設置される少女像に関しては、放っておくしかないでしょう。
アメリカの街に少女像が建つと、日本の総領事館から抗議に行きますが、これは実際問題として、わざわざその存在を大々的に宣伝している結果になっている。
騒がなければ小さな像が建っただけなので、地元でさえ大きな話題にならないのに、日本政府や日本人が大挙して抗議に行くことでニュースになってしまう。
お世辞にも上手い方法とは言えません。
そもそも第2次世界大戦に関わる過去は日本にとって、美しい過去にはなりえません。
たとえば「南京で何があったのか。正確な犠牲者数は何人だったか」を一生懸命議論しても、そもそも戦争を始めたのは日本である以上、
日本のイメージが良くなる可能性など始めからない。

 文在寅政権ほど日韓関係に関して何のアプローチもしてこない政権はかつてありませんでした。
ある意味では歴代政権で日本を最も軽視している政権だと言ってよい。
朴槿恵より前の大統領は、政権出発当初は「日韓関係の改善を」と主張して、いろいろな案を出しました。
朴槿恵はその代わりに「慰安婦問題の解決を」と言いましたが、これだって形は違うけど日本への関心の表れ。
でも、文在寅は何も具体的な事は言わないし、まだ来日さえしていない。
昨年10月に着任した新しい駐日大使の李洙勲(イスフン)は、日本とは縁の薄い人物で、政権内に強い影響力を持っている訳でもない。
これらのことは彼らが「日韓関係はこのまま膠着(こうちゃく)状態で構わない」と思っている証拠だと思います。
朴槿恵は「中国のほうが日本より重要だ」と言っていたのですが、現在の韓国では、そもそも日中を比較する、などという発想自体が存在しない。
米中2カ国が圧倒的に重要で、北朝鮮問題で存在感を発揮するロシアがその次。日本はそこからずっと後ろです。

 安倍首相が平昌五輪の開会式に出席し、首脳会談で日韓合意の履行を求めることになりました。
やらないよりはましだと思いますが、それで事態が変わるとは思えません。
なぜなら、そもそも今の韓国政府には、日韓関係を改善する積極的な意思がないからです。
私はよく「熟年離婚」にたとえるのですが、日韓関係は双方がお互いを必要としていた時代が終わり、気が付けば協力する理由さえ見つけられなくなっている。

 その韓国が日本に対して最も恐れているのは、日韓合意へと韓国を追い詰めた日本のアメリカに対する影響力です。
現在、文在寅大統領とトランプ大統領はそれほど仲がいいようには見えませんが、安倍首相はトランプ大統領と良い関係を構築しているように見えます。
韓国は日本そのものは怖くなくても、日本がアメリカを動かして、米韓関係が悪化すれば大変です。

 だからこそ日本にとって大切なことは、アメリカ及び国際社会を引きつけることです。
2015年には安倍首相がオバマ政権との関係を改善したことが、結果的に朴槿恵大統領を追い込みました。
韓国が見ているのは、日本の後ろにいるアメリカなのです。しかし、アメリカも今や自国ファーストなので、ことによると、
日本を離れて、韓国に接近することもありえます。
日韓合意を生きたものにするには、アメリカと国際社会を味方にしておく不断の外交努力が、これからも必要なのです。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180315-00006500-bunshun-int&p=5