五歳の息子がテレビ番組のスーパー戦隊にのめっている。赤ん坊と変わらないもみじのような手で、おもちゃの剣を振り回し「戦いごっこ」にいそしむ姿は、「男らしさ」に疑義を呈するジェンダー論を学んでしまった母にはしんどい。もう平成が終わろうというのに、いったいいつまでメディアは「○○レンジャー」を通じて「男=戦士」の刷り込みを続けるのだろう。

そんなふうに初めは批判的だったのだが、よくよく見てみると、事はそれほど単純ではなかった。「戦うこと」の意味や「男らしさ」のあり方が、長い歴史のなかで変わっていたのだ。


変化を一言で表せば、いわゆる「ヒーローの不在/等身大化」である。スーパー戦隊シリーズが始まるのは、一九七〇年代半ば。八〇年代までは、「科学戦隊ダイナマン」「超電子バイオマン」など、科学の力で敵を撃退するものが目立つ。九〇年代以降、「忍者戦隊カクレンジャー」「激走戦隊カーレンジャー」などオタク的なテーマを体現するものや、動物の野性味を打ち出す「百獣戦隊ガオレンジャー」などが現れはじめ、二〇一〇年代までつづく傾向が示される。

「進歩する未来」が信じられなくなった時代、ヒーローたちは、もはや圧倒的な強さを備えて絶対的な悪と戦うのではない。身近な興味対象や内に秘めた個性を拠り所に、仲間と協力して敵に立ち向かいながら、成長していくのだ。

 こうした変化は「男らしさ」の描き方にも見られる。「仮面ライダーシリーズ」の分析をした葛城浩一によれば、一九七〇-八〇年代の「昭和ライダー」では、高学歴でスポーツ万能な文句のつけようのないヒーローが多いが、二〇〇〇年以降の「平成ライダー」になると、主人公がニートであったり、仮面ライダーなのにバイクの扱いが下手だったり、趣味は料理など、「力強さ」を感じさせない人物になるという(「ヒーロー像はどう描かれてきたのか」子ども社会研究18号)。

 ところで最近、子どもと一緒にスーパー戦隊の絵本を読みながら、発見をした。仮面ライダーシリーズの最新版「ビルド」では、主人公はこれまでどおり敵と戦うのだが、その敵は一枚岩ではなく、敵同士も戦っており、三つ巴になっているのだ。まあ複雑な、と見ていたら、なんと新しくスタートしたスーパー戦隊では、「怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」として、ヒーロー同士が戦っているではないか。

そこにあるのは、「ヒーローの不在」を通り越して、「正義VS悪」という構図の不在である。スーパー戦隊が誕生してから四〇年あまり。ついに「悪と戦う正義」は失効したのだ。今では絶対的な「正しさ」は存在せず、さまざまな背景を持つ人びとが、「自分なりの正しさ」を携えて、それぞれの立場で戦うしかない。

ここまできたならば、とフェミニストの母は思わずにいられない。「戦うこと」の自明性それ自体を、解体することはできないのか。イベントのたびに、おもちゃとはいえ剣や銃を買わされるのはたくさんだ。世界を変えるために「戦うこと」に頼るのは必然ではない。男の子の成長過程における、脱暴力化を。例えば「ペンは剣より強い」を体現するような、新時代のヒーローが、そろそろ現れてよいのではないか。

https://news.yahoo.co.jp/byline/kidorie/20180315-00082761/