週刊誌「ヤングマガジン」(講談社)で連載中の歴史漫画シリーズ「センゴク」の主人公といえば、但馬国・出石藩主の祖となった戦国武将、仙石秀久だ。豊臣秀吉の家臣として順調に立身出世を重ねながら、壮絶な「やらかし」によってどん底に突き落とされ、再びはい上がる-。浮き沈みの激しいその人生は、“戦国期のジェットコースター大名”などと例えられる。


 「最も失敗し、挽回した男の物語」。漫画センゴクの作品紹介に記されているフレーズだ。

 2015年に出石で開かれた「仙石権兵衛展」に携わった豊岡市立歴史博物館の石原由美子史料調査員は、苦笑いしながら秀久の生涯を振り返る。「切腹ものの失態を犯しながら生き永らえて、しかも大名に戻った。とにかく奇抜で、ラッキーな人だと思います」

■順風満帆

 秀久は、美濃国の豪族、仙石家の第4子として1551年に生まれた。長男に代わって12歳で当主となると、織田信長の命で秀吉に仕えるようになる。

 「姉川の戦い」に従軍するなど各地の合戦で戦功を上げ、30歳の頃には、淡路島一円を領する洲本城5万石の大名に。秀吉古参の武将の中で、誰よりも早い出世だったという。

 秀吉の権勢拡大とともに、秀久の地位も上がっていく。85年には、四国平定の功績により讃岐10万石を拝領し、秀吉の家紋「桐紋」の使用も認められた。石原さんは「豊臣姓を受けたという話もあり、重用されていたことは間違いない」と指摘する。

■空前絶後の大失敗

 順調だった人生は86年、秀吉の九州攻めで暗転する。部隊を取りまとめる「軍監」として島津軍と相対した秀久は、強硬に攻撃を主張。秀吉率いる本体の到着を待つよう説得する周囲を押し切って進軍を決める。

 だが、島津軍の待ち伏せに遭い、部隊は総崩れに。長宗我部信親、十河存保ら有力武将が次々に討ち死にする中、秀久は真っ先に戦場を離れ、後処理もせずに讃岐に逃げ帰ってしまう。

 この「戸次川(へつぎがわ)の戦い」での行動によって、秀久は「三国一の臆病者」と嘲笑された。「三国」とはインド、中国、日本を指し、いかに大きな失態だったかが分かる。激怒した秀吉によって所領を没収された秀久は、30代後半にして、大名から一介の浪人へと転落した。

■「無」からの再起

 島津軍を抑え、九州を平定した秀吉は90年、抵抗を続ける関東の北条家討伐へ小田原城に出兵する。京都で浪人生活を送っていた秀久は、汚名返上を狙い、「無」の馬印を掲げて参戦する。全てを失い、まさに背水の陣の心意気を表現しているとも、自らの力を誇示する「天下無双」から採ったとも伝わる。

 小田原城の入り口を攻め取るなど奮闘し、秀吉に許されると、信州・小諸5万石の大名に復活。「天下の大泥棒」石川五右衛門を京都で捕らえたという伝承は、この後のエピソードだ。

 秀吉に引き立てられ、名誉を挽回してもらった秀久だったが、秀吉の死後は豊臣家と距離を置く。1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康の東軍に味方して所領を安堵され、14年に63歳で亡くなった。

■子孫も破天荒?!

 「下克上」という言葉が生まれた混乱期とはいえ、武将としては致命的な汚点を残しながらよみがえり、大名として天寿を全うした秀久。石原さんは、首をかしげる。

 「なぜ大名に復帰できたのか、その理由は分かっていないんです。秀吉によほど気に入られていたのか、成り上がろうという思いが人一倍強かったのか…」

 その後の仙石家は、信州・上田藩主を経て、4代後の政明の時代に出石藩へ転封となる。秀久の破天荒な生きざまが子孫にも受け継がれたのか、江戸後期には後継ぎを巡る「仙石騒動」を起こし、5万8千石から3万石に減封されている。(小川 晶)

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