高福祉と美しい自然で知られ、理想の国としてあげられることの多いフィンランド。 日本と同様、いやそれ以上にロシア・ソ連の脅威にさらされてきたこの国は、かつて共にその 領土的野心と対峙した“盟友”だ。世界の親日を巡る旅を続けるジャーナリストの井上和彦氏が、レポートする。

フィンランドといえば、ムーミン、サウナ、サンタクロースなどを思い浮かべる人も多いだろう。

 そんなフィンランドが世界有数の親日国家であり、その源流は日露戦争(1904-1905年)にあることをご存じだろうか。

 当時フィンランドは帝政ロシアの統治下にあり、日露戦争における日本の大勝利はフィンランド人を熱狂させた。それはそうだろう。アジアの小国・日本が強大な帝政ロシアを打ち負かしたのだから。このことがフィンランド人に日本への畏敬の念を抱かせたのだった。

◆日本製兵器で戦った

 元大統領パーシキビは次のように綴っている。

《私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛び込んできた。彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した》(『世界に生きる日本の心』展転社)

 当時日本を訪れた独立運動家コンニ・ジリアクスが、日露戦争における情報戦で大活躍した明石元二郎大佐と出会い、これを契機に日本の対フィンランド支援が開始された(1905年)。こうして多くの日本製兵器がフィンランドに送られたのである。

 首都ヘルシンキ市内の軍事博物館には、菊の御紋章が刻印された日本製の「三十三年式小銃」や「騎兵銃」などが展示されている。かつてフィンランドの兵士達が、それらを使ってロシア軍と戦ったのだ。

 この北欧の地では意外なことに”日本”を感じさせる風景がある。

ロシア正教会のウスペンスキ寺院が建つカタヤノッカの丘には桜の木が植えられており、毎年春に可憐な花を咲かせる。さらに5月頃には、日本でよく見かけるたんぽぽと菜の花も咲く。日本とは気候がまるで違うフィンランドで、それらを目にすると感慨もひとしおである。

◆ドイツ側に立ち対ソ戦

 一方でヘルシンキを散策すれば、西欧とロシアが交じり合った特異な雰囲気を感じることだろう。

 ヘルシンキ大聖堂の前にある元老院広場の中央にはロシア皇帝アレクサンドル二世の銅像が建つ。

 実はフィンランドは1323年から1809年まで隣国スウェーデンの統治下にあった。その後、ナポレオン戦争の最中にロシアに割譲され、フィンランド大公国が建国される。大公はロシア皇帝が兼任し、以後約100年にわたってロシアによる支配を受けたのだ。

 そして迎えた1917年、第一次世界大戦およびロシア革命の混乱期に念願の独立を勝ち取った。だが、翌年1月、ソビエト政府の支援を受けて革命を目指す労働者階級の「赤軍」と、ブルジョア階級の「白軍」とが激突、ここに「フィンランド内戦」が始まった。

 約4か月に及ぶ戦いは、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム将軍率いる白軍が、スウェーデンの義勇兵などの支援を受けて赤軍を打ち破った。

 その後の1932年にはソ連と不可侵条約を締結したが、1938年にソ連のスターリンはフィンランドに対して、東部国境の変更(西側への移動)およびフィンランド湾の4つの島嶼の割譲を要求。フィンランドはこれを拒絶したため、1939年11月30日、ついにソ連軍がフィンランドに侵攻を開始して「冬戦争」が勃発した。フィンランド側の総司令官は再びマンネルヘイム将軍であった。

 いざ戦いが始まると、劣勢と思われていたフィンランド軍が各地で奮戦し、ソ連軍の猛攻を見事に撃退したのである。だが1940年2月、態勢を立て直したソ連軍が再び侵攻し、同年3月にはカレリア地方など国土の約1割を割譲する講和条約を締結せざるを得なかった。

 ソ連の侵略はとどまるところを知らず、スターリンはフィンランドをポーランドのように抹殺しようとドイツに持ち掛けたが、この要求は拒否された。1941年6月にドイツがソ連に侵攻を開始するやフィンランドはドイツ側に立って参戦したのである。だが圧倒的物量を誇るソ連軍には抗しきれず、1944年に対ソ休戦協定の締結を余儀なくされたのだった。

 ロシアの統治を経験し、その後もソ連の脅威にさらされ続けたフィンランドの町には、それゆえに“ロシア”が漂っているのである。

◆日本の大砲でソ連撃退

 ヘルシンキ市内、大統領官邸の向かいにある船着き場からフェリーで15分、世界遺産・スオメンリンナ島に着く。この島はフィンランドがまだスウェーデン領だった頃にヘルシンキを防衛する目的で築かれた要塞の島であった。その後ロシア軍が駐屯し、1917年のロシア革命を契機としたフィンランドの独立によって「スオメンリンナ」(フィンランドの城)と命名されて今に至っている。

 この島には、広島県・江田島の海軍兵学校(現・海上自衛隊第一術科学校)とよく似た「海軍兵学校」も置かれている。

 そして驚くべきことに、同島には「明治参拾壹年」「呉海軍造兵廠」と刻印された日本製の120mm砲が”武勲砲”として野外展示されているのだ。その説明書にはこう記されている。

《この大砲は後のソ連との「冬戦争」最中の1939年12月6日に162発を撃ってソ連軍の攻撃を撃退した。その後も活躍し、1940年2月19日の戦闘で砲身にクラックが入ったが、それでもなお照準器なしで撃ち続けて敵を粉砕した。射撃弾数は648発に達した》

 日本から送られた大砲が、ソ連軍を撃退しフィンランドを守ったのである。

 そんな歴史を見つめてきた島には、スウェーデン時代に築かれた「クスターンミエッカの城壁」がいまも原型をとどめている。

 眺めの良い高台から城砦を望めば、いまも海を睨み続けるロシア統治時代の大砲とフィンランド国旗はためくクスターンミエッカの城壁が美しい。まさしくこの島はフィンランドの近代史そのものであり、歴史の語り部なのである。

◆勲一等旭日桐花大綬賞

 フィンランドの近現代史は、宿敵ソ連(ロシア)との戦いの歴史でもあった。なかでも前述の「冬戦争」でのフィンランドの善戦ぶりは世界中を驚かせた。それはまるで、その35年前の日露戦争のごときであった。

 マンネルヘイム将軍は祖国を守りぬいた名将であり、まさに日本における大山巌元帥か東郷平八郎元帥といったところだろう。

 実はこのマンネルヘイム将軍、帝政ロシア時代にはロシア軍の師団長として日露戦争に従軍し、乃木希典将軍と戦ったというから驚きだ。ロシア側に立ってロシア軍敗北の様子を体験した貴重な経験が大いに役立ったのかもしれない。

 フィンランド人はいまもマンネルヘイム将軍を救国の英雄として尊敬し、ヘルシンキ市内にはかつて将軍が暮らした住居が博物館として残っており、多くの観光客が訪れる。博物館にはマンネルヘイム将軍に贈られた日本の勲一等旭日桐花大綬章も展示されており、日本とフィンランドのつながりを知ることができる。

 かつてある国際会議の懇親会で、外交を巡って私とオーストリア人が激論となったことがある。その時、ロシアという大国を隣国に持つ国の苦悩を訴え助太刀してくれたのがフィンランド人だった。後で彼はこう言うのだった。

「ロシアを挟んでフィンランドと日本は“お隣さん”だから、互いの安全保障のために手を結ばないとね」

 日露戦争での日本の勝利を絶賛し、日本から送られた兵器で祖国を守るために戦った親日国家フィンランド歴史を再評価し、もっとお近づきになりたい国である。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181017-00000003-pseven-int&p=4