「動物好きのおじさん」から「ラストサムライ」まで、さまざまなイメージで語り継がれる西郷隆盛(1828~77)。最近、新たに加わったのが「革命家」の顔だ。今年のNHK大河ドラマ「 西郷(せご)どん」の演出が影響しているようだが、史実に照らすとどうなのか。西郷が活躍した明治維新は、日本の「革命」だったのか。

◆維新は「革命」か「革新」か
 明治改元の詔から150年となる10月23日、政府主催の記念式典が東京・永田町の憲政記念館で開かれる。かつての雄藩「薩長土肥」では「かごしま明治維新博」「やまぐち幕末ISHIN祭」「志国高知 幕末維新博」「肥前さが幕末維新博覧会」が開かれている。戊辰戦争で犠牲者を出した会津(福島県)などでは「維新」ではなく、会津でも「戊辰150周年」の記念事業が目白押しだ。書店にも明治維新関連の書籍がたくさん並んでいる。

 1962年(昭和37年)の創刊から56年で通巻2500点を迎えた中公新書は、記念作品として『日本史の論点』(中公新書編集部編)を出版した。気鋭の歴史学者5人が29の日本史の謎を解説する歴史ファンにはたまらない一冊なのだが、その中で慶応大教授の清水唯一朗さんが「明治維新は革命だったのか」を解き明かしている。

清水さんによると、「維新」という言葉は中国の古典『詩経』に由来し、「維(こ)れ新(あらた)なり」、すなわち、すべてが改まり新しくなることを指す。英語では「復古(Restoration)」があてられてきた。最近は「革命(Revolution)」と規定すべきだ、という意見もあるが、Revolutionはフランス革命のような秩序の大変革を意味し、中国では「革命」は王朝(体制)の抜本的な入れ替えを意味する。

 明治維新は、商人や農民が起こしたわけではない。政権は徳川から薩長土肥へと移ったが、清水さんは、江戸と明治に連続性があることを理由に、明治維新は極めて大規模な「革新(Innovation)」と見るべきだ、と主張している。

 だが、維新150年にあわせて制作された今年のNHK大河ドラマ『西郷どん』は、明らかに明治維新は革命で、西郷は革命家だったと位置づけている。それがわかるのが、流罪になっていた西郷隆盛が沖永良部島から薩摩(鹿児島県)に帰るシーンだ。

◆憧れの人・ナポレオンの「正体」

ドラマでは、西郷と同じ流罪人だった川口雪篷(せっぽう)(1819~90)が、舟で島を出る西郷を、自ら書いた「革命」の旗を振って見送った。雪篷は、蘭学者の小関三英(こせきさんえい)(1787~1839)が翻訳したフランス皇帝ナポレオン(1769~1821)の伝記『那波列翁(ナポレオン)伝初編』を島に持ち込み、西郷にナポレオンの業績を教えている。

 雪篷がナポレオンを知っていた証拠はないが、書がうまく、流罪になる前は藩の書物の筆写が仕事だったというから、ナポレオンの伝記を読んでいても、革命の旗を自作してもおかしくはない。ドラマの時代考証を担当した歴史学者の磯田道史さんは『素顔の西郷隆盛』(新潮新書)の中で「西郷は島暮らしで革命思想を育んだ」との見方を示している。このシーンには磯田さんの「革命家・西郷」を印象づける狙いがあったのだろう。

 流罪中に読んでいたかどうかはともかく、西郷の自宅からは『那波列翁伝初編』が見つかっており、西郷がナポレオン好きだったのは間違いない。吉田松陰(1830~59)もこの伝記を獄中で読んで感動し、「草莽崛起(そうもうくっき)」、すなわち「在野の人よ、立ち上がれ」と唱えている。

 ナポレオンは自ら革命を起こしたわけではない。「抑圧された人々を自由にする」という大義を掲げる一方で、共和制を終わらせ、他国に次々と戦いを仕掛けて皇帝に就いている。彼が率いたフランス国民軍は徴兵制によって編成された「草莽」の集まりだったが、封建領主らの傭兵(ようへい)軍を次々に撃破している。

 幕末の志士たちは革命の大義ではなく、下級士官に過ぎなかったナポレオンが草莽を近代的な軍にまとめあげ、封建勢力を打ち破ったことに感銘を受けたのではないか。

 松陰の最後の弟子だった山田顕義(1844~92)は、戊辰戦争で討伐軍を指揮し、西郷から「あの小童(こわっぱ)、用兵の天才でごわす」と絶賛されて「日本の小ナポレオン」と呼ばれた。山田はのちにナポレオン法典を学んで初代の司法大臣(今の法相)となる。

 ちなみに山田が法学を普及させるため設立した日本法律学校が、今の日本大学だ。スポーツ関連の不祥事が続き、法令順守(コンプライアンス)が厳しく問われる今の姿を、「学祖」の山田はさぞ苦々しく見ているだろう。

◆西郷どん方針転換…江戸総攻撃中止の“黒幕”
社会学者の大沢真幸さんも『日本史のなぞ』(朝日新書)の中で、明治維新は革命ではなかったとみている。革命とは外部の力を借りず、意図的に起きる社会の変動であって、黒船来航という外圧をきっかけに起きた明治維新はこれに該当しないというわけだ。この考えに従えば、外圧を頼らず、自らの意思で前体制を破壊した人のみが革命家、ということになる。

 『西郷どん』の中で西郷は、「日本のことは日本人で解決しなければならない」とイギリスの援助を拒否し、武力討幕に突き進む。武力を使わない大政奉還による政権交代を目指す坂本龍馬(1836~67)と対立し、「自分一人になっても慶喜の首を取る」と、執拗(しつよう)に徳川慶喜(1837~1912)を追い詰める。SNS上には「西郷がダークサイドに墜(お)ちた!」「戦いの鬼すぎて怖い」と、西郷の変わりぶりに戸惑う声が相次いだが、「突然のキャラ変更」は西郷を革命家として描くには必要なことだったのだろう。

しかし、武力討幕のクライマックスでの実際の西郷の動きは、ドラマとはだいぶ異なる、との説もある。江戸総攻撃の直前、西郷は横浜にいたイギリス公使のハリー・パークス(1828~85)に使者を出し、総攻撃の了解を取ろうとした。ところがパークスは、新政府に恭順の意を示していた慶喜の討伐に強く反対し、慶喜の亡命をイギリスが受け入れる可能性にまで言及したという。返答を聞いた西郷はしばし愕然(がくぜん)としたというが、勝海舟(1823~99)との会談ではそれまでの強硬姿勢をあっさり転換し、総攻撃の中止を承諾した。

 西郷の方針転換は京都で開かれた三職会議で承認されたが、木戸孝允(1833~77)は西郷の豹変(ひょうへん)ぶりを「眼中には徳川しかないと言いつつ、実は欧州(イギリス)があるのみだ」と痛烈に皮肉っている(石井孝『明治維新の舞台裏』)。

西郷とともに慶喜抹殺を主張していた大久保利通(1830~78)は、江戸総攻撃の1か月前には慶喜を助命し、備前藩(岡山県)お預けとする収拾案を示していた。百万の江戸市民の犠牲を避けるという西郷の決断がなければ無血開城は実現しなかったのは確かだが、そもそも江戸総攻撃の方針が慶喜に無条件降伏を迫る交渉戦術に過ぎず、パークスの意向に左右されていたとすれば、西郷や大久保は革命家というより、戦略家ではないか。

 西郷らの方針転換を皮肉った木戸は、当初から慶喜の寛大な処置を主張していた。「維新の三傑」はいずれも、旧体制を完全に破壊し、江戸時代との完全な決別を追求したわけではなかったといえる。

◆「維新の意義は?」日本史考えるきっかけに
にもかかわらず、明治維新は日本を大きく変えた。勝者となった薩長土肥の士族が、版籍奉還や廃藩置県を通じて禄(ろく)と領土という自らの特権を手放し、「王政復古」の一方で「文明開化」という一見矛盾する改革を平和裏に進めたことが大きい。

 フランス革命では200万人の血が流れたが、戊辰戦争は3万人といわれる。それに続く改革はほとんど抵抗なく行われ、司馬遼太郎(1923~96)は「明治維新は世界でもまれな革命だった」(『「明治」という国家』)と書いている。

 これまでにも歴史学者はもちろん、多くの文化人が明治維新の意義を考察し、数え切れないほどの著作や論文を残している(別表)。戦前の「日本資本主義論争」でも維新の意義や、やり残した革命について大きな論争になり、この論争が戦後に共産党系と社会党左派などの非共産党系が分かれる背景のひとつとなった。

 新政府は旧幕臣も積極的に登用し、「万機公論で決する」仕組みは近代憲法、議会制導入へとつながった。一方、中央集権、官僚国家を土台とする政治体制は、制度疲労を起こしているようにもみえる。

 革命かどうかなどどうでもいいではないか、と思う人もいるだろうが、平成の終わりの年に維新150年を迎えた秋の夜長に、日本の歩みを振り返るのも悪くない。『日本史の論点』は巻末に、執筆陣が選ぶ各時代の必読書「日本史をつかむ百冊」もついている。中公新書が創刊された1962年に生まれた私の書棚にある中公新書は30点に満たないが、好きな歴史物を読み直し、知的な鉱脈を探したい。

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