心療内科医・梅谷薫の「病んでるオトナの読む薬」

「胃のあたりが苦しくてたまらないんです」

 と、L美さんは、つらそうな表情で訴えた。

 L美さんは、32歳の女性。3か月前から上腹部が重苦しくて、時々キリキリと痛むようになったとのこと。消化器内科で詳しい検査を受けたが異常がなく、「機能性ディスペプシア」と診断された。ストレスが原因ではないかということで、こちらの外来を紹介されてきたのである。

天井から「ドンッ」と大きな音が
 「何か思い当たることはありますか?」

 と尋ねると、しばらく考え込んでいたが、

 「そうですね。悩みと言えば、マンションのことくらいでしょうか……」

 との答えが返ってきた。

 L美さんは専業主婦。半年前に夫と二人、郊外のマンションに引っ越した。10世帯が入居する小規模のマンションで、あいさつ回りでも、皆さん親切に対応してくれた。静かでいいところに引っ越したと喜んでいたのだが……。

 ある日、L美さんがテレビを見ていると、天井から「ドンッ」という大きな音がした。彼女は驚いて、しばらくじっとしていた。すると、また「ドンッ」と大きな音が響いた。おそるおそる、上の階の住人を訪ねた。50代の独身男性。音の原因を尋ねるL美さんに向かって、

 「昼間っから、テレビの音がうるさいんだよ!」

 と男性は大きな声で脅すように叫んだ。

 L美さんは、そんなに大きな音にしていないと話したが、男性は納得してくれなかった。仕方なく、音は小さくすると言って帰ってきた。

味方のはずの夫まで…
 その後も、掃除機をかけたり、音楽を聴いたりしていると、「ドンッ」と足を踏みならす音が響く。彼女は一日中、ビクビクしながら暮らすようになった。夫と相談して、上の階の男性と掛け合ってもらったが、相手は「そっちが悪い」の一点張りで、らちがあかない。

そのうち、下の階の夫婦からも、「お宅の物音がうるさくて子どもが勉強できない」と苦情が出た。覚えがないので、説明したが、信じてもらえない。マンションの住人で構成している管理組合でも議題に挙げられ、夫婦そろって釈明したが、「今後、注意が必要だ」と、多数決で決められた。組合長の態度にも、ある種の悪意が感じられた。

 そのうち、近所の奥様方のヒソヒソ話が気になるようになった。

 「若くて美人だと思って、えらそうな態度がいやだわねぇ」

 などと、わざと聞こえるような声でうわさ話をしている。L美さんは毎日の心労が続き、眠れなくなった。胃がキリキリ痛み、重苦しさを感じるようになったのである。

 「どんなに説明してもわかってもらえない。無視されたり、うわさされたりで、どうしていいかわかりません。味方のはずの夫まで、『おまえの責任だ』って言うんです……」

 L美さんは気分が落ち込んで、ノイローゼ気味だという。とりあえず胃薬を出し、つらいときに飲むように、まずは、軽い抗不安薬を処方してみた。

弁護士に相談して内容証明を送付

L美さんは、思い余って弁護士に相談した。このような状況が続くことに耐えられなくなったのだ。

 弁護士は上の階の住人宛てに、「内容証明」を書いてくれた。それが届いた後、上の階からの音はピタッとやんだ。

 「ようやく胃の痛みもおさまってきました」

 というL美さんの声に、こちらもホッとしていたのだが……。

 今度は、L美さんに対する個人攻撃が始まった。

 「あの方、組合長さんに色目を使うんですって。離婚しては、ほかの男性に乗り換えるって本当?」

 といううわさを聞いた時は、本当にびっくりした。確かに、彼女は再婚しているが、それを話したことはない。組合長は、某女子大の教授だということだが、あいさつに来た時の態度があまりにもなれなれしかったので、けんもほろろに追い返したことを思い出した。

 狭いマンションの中で、毎日のようにうわさされ、L美さんの不眠と抑うつ症状は急激に悪化した。

 組合長が怪しいと思うのだが、証拠などまったくない。せっかく買ったマンションを出るしかないと、彼女も覚悟を決めるしかなかった。

人格者のように思われた組合長が

その後しばらく、L美さんの受診は途絶えた。引っ越しで改善したのだろうと、こちらも思っていたが、3か月ぶりに外来を訪れた彼女に、近況を尋ねてみた。

 「実はまだ、引っ越していないんです」との答え。

 きっかけは、組合長の5歳の娘が、近所の友だちの家に逃げ込んだことだった。組合長は大学教授で、人格者のように思われていたが、家庭内では暴君で、子どもを虐待していた。近所からの通報で、警察が動き、取り調べが始まった。実は以前にも、学内のセクハラで取り調べを受けたことがあったという事実も判明した。マンション内の彼の評価はあっという間に低下し、組合長一家は、逃げるようにして引っ越していった。

 それをきっかけに、L美さんへの誹謗(ひぼう)中傷も消えた。彼女の症状も消え、ようやく落ち着いた毎日が戻ってきた。

 「でも、やはりこのマンションは引き払おうと思います。良い思い出がないし、まわりの方たちを信頼できませんから」

 とL美さん。住み始めてからそんなに日もたたないのに……と、残念そうだった。

 「気に入った家を見つけるまで3度は住み替えろと言った人もいました。あきらめずに探せば、きっとあなたにふさわしい『すみか』が見つかると思いますよ」

 と話すと、L美さんの顔にようやくほほえみが浮かんだ。安心して暮らせる「居場所」を見つけるのは本当に難しいという意味の言葉に、彼女は深くうなずいてくれたのだった。

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