<突然の林鄭行政長官の「逃亡犯条例」完全撤回に不気味な沈黙を続ける中国政府。
条例撤回はデモで追い詰められた林鄭が、習近平にすべてを責任転嫁する計算づくの「反逆」だった?>

香港政府トップの林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は9月4日のテレビ演説で、刑事事件の容疑者を中国本土へ引き渡すことを可能にする「逃亡犯条例」改正案を完全に撤回すると表明した。

6月から香港で続いている大規模な抗議運動とそれに伴う香港社会の大混乱は、まさにこの「逃亡犯条例」改正案の提出から始まった。
行政長官による完全撤回の表明は、香港だけでなく世界から注目される大事件であり、香港情勢の大逆転でもあった。

ここで浮上した問題の1つは、この決定は中国政府の指示によるものなのか、それとも香港政府あるいは行政長官の独断によるものか、ということである。
撤回表明翌日の5日に林鄭は記者会見を行ったが、その中では中国政府の支持を得て香港政府が決定したと発言。
「すべてのプロセスにわたって、中央人民政府はなぜ撤回が必要かを理解している、との立場をとった。
中央政府は私の見解を尊重し、一貫して私を支持してくれた」と語った。

この発言からすれば、香港政府は事前に北京政府のお墨付きを得たことになる。
だが1つ不可解な点がある。もし林鄭が事前に中国政府の「支持」と「理解」を得ていたのであれば、4日のテレビ演説でなぜ「中央政府の支持と理解を得た」と言わなかったのか。

中国政府は茫然自失?
さらに奇妙なことに、林鄭が記者会見した同じ5日、肝心の中国政府は「理解」や「支持」をいっさい表明していない。
それどころか、中国政府のいかなる機関もこの件について言及せず、完全な沈黙を守っている。

中国政府の沈黙は実に興味深い。このような反応(あるいは無反応)を見ると、「事前に中央政府の理解と支持を得た」という林鄭の言い分は怪しい。
中国の中央政府はむしろ、彼女からの「不意打ち」を喰わされて茫然自失しているのではないか。

林鄭の発言を否定するもう1つの材料はすなわち、撤回表明の前日の3日、中国国務院香港・マカオ事務弁公室の報道官が記者会見で行った発言だ。

この記者会見の中で、楊光報道官は記者からの質問に答える形で、香港のデモ隊が掲げている5大要求について発言した。
彼はそこで、「それは要求でも何でない。赤裸々な『政治的恫喝』であり、『政治的脅し』だ」と述べ、この5大要求を完全に拒否する姿勢を示した。

いわゆる国務院香港・マカオ弁公室は中国の中央政府直轄下の政府部門であるから、この発言は当然、香港市民の5大要求に対する中国政府の正式見解であると理解していい。
その当日から翌日にかけて、人民日報海外版や中国国務院弁公室の公式サイトは「過激派の5大要求は赤裸々な政治恫喝だ」と、上述の楊光発言を大きく報じた。

林鄭と周辺の奇妙な動き
つまり、少なくとも9月3日と4日の時点で、共産党政権は香港市民の5大要求に完全拒否の姿勢を貫き、むしろ「政治的恫喝」として厳しく批判していた。
そして5大訴求の第1条は「逃亡犯条例改正案の完全撤回」である。
5大要求を「政治的恫喝」だと断じて完全拒否の姿勢を示しておきながら、要求の1つである「改正案撤回」を容認するのはあり得ない。

もし、林鄭による撤回表明が中国政府の事前了解と支持を得ていないのであれば、彼女のこの動きは明らかに反乱であり、一種のクーデターと見ていい。
そして、林鄭による撤回表明がクーデターであるという視点に立てば、8月末から9月3日にかけて林鄭とその周辺で起きた一連の奇妙な動きの意味が分かってくる。

奇妙な動きの1つはまず、ロイター通信が8月30日、中国政府が林鄭による「改正案撤回」の提案を拒否したと報じたことである。

ロイターが「複数の関係筋」の情報に基づいて報じたところによると、林鄭は今年夏、抗議デモの参加者が掲げる5大要求について検討した報告書を中国政府に提出し、
「逃亡犯条例」改正案を撤回すれば抗議デモの鎮静化につながる可能性があるとの見解を示したという。
しかし中国政府は、改正案の撤回に関する林鄭の提案を拒否。5大要求の他の項目についても要求に応じるべきではないとの見解を示した。

ロイターが報じた内容を中国政府は一切否定していないから、おそらく事実なのであろう。
ここでの問題は、「複数の関係筋」が一体何のために、中国政府と香港政府との極秘のやり取りをリークしたのか、である。

まず考えて見るべきなのは、一体誰がこのリークの受益者となっているかであるが、その答えは簡単だ。林鄭こそがまさにその受益者である。

中国政府に改正案撤回を提案したことが明るみに出たことで、林鄭は一転して香港のために精一杯頑張った良き行政長官になった。
それだけでなく、それ以降の混乱拡大に対する責任の大半からも逃れることが出来る。
逆に、林鄭からの提案を拒否したと報じられた中国政府は混乱拡大の最大の責任者とされ、大変な窮地に追い込まれた。

もしそうなら、このリークこそ林鄭が中国政府を自分の考える方向へと追い詰めるための、いわば「林鄭クーデター」の第1ステップであると考えられよう。

英語で発言した理由
そして「林鄭クーデター」の第2ステップは、9月3日までに非公開会合における林鄭の重大発言が同じロイター通信にリークされたことである。

ロイターは今月2日、林鄭が実業界の首脳たちとの非公開の会合で「可能なら辞任したい」と発言したと報じた。
さらにロイターは3日、約30分間におよんだ林鄭発言の録音の24分間を公開。発言のほぼ全容を明らかにした。

その中で林鄭は、「もしも自身に選択肢があるなら」と断った上で「まずは辞任し、深く謝罪することだ」と述べたうえで、
香港の混乱は中国にとって国家安全保障・主権の問題となっているため、自身によって解決する余地は「非常に限られている」と説明した。

彼女はさらに「残念ながら憲法で2つの主人、つまり中央人民政府と香港市民に仕えなくてはならない行政長官として、
政治的な余地は非常に、非常に、非常に限られている」と、自らの深い苦悩を吐露した。

「中央政府が撤回提案を拒否した」という情報をリークしたとの同じように、林鄭とその周辺が内部発言を報道機関にリークした可能性は高い。
リーク先は前回同様ロイター通信だ。もう一つ、林鄭はこの内部発言を英語で行った点も注目すべきだ。

彼女の話す相手は香港の実業界であったから、本来、香港人が親しんでいる広東語で喋っていても良さそうだ。
わざと英語で話したのは、まさにロイターにリークしやすくするための工夫ではなかったか。

この発言で、林鄭は事態収拾の責任を中国政府になすり付けることに成功し、中国政府はより一層窮地に立たされた。
これまで習近平政権は、中国政府が直接香港に介入して武装警察や解放軍を鎮圧に動員することは国際社会の反発が強くリスクが大きいから、
できるだけ自分たちの手を汚さず香港政府と香港警察に事態の収拾を任せたい、ともくろんでいた。

しかし今、香港政府と林鄭は公然と、責任を中央政府になすり付けてきた。
中国政府の思惑は完全に外れ、習政権は自ら矢面に立たされる形で、武力鎮圧に踏み切るかどうかの瀬戸際の判断を迫られている。
10月1日の国慶節(建国記念日)が迫る中、残された時間はわずかしかない。

こうしてみると9月4日に突然、逃亡犯条例改正案の完全撤回を発表したのは、実は用意周到な中国政府に対する「林鄭クーデターの完成」ではないのか。 
つまり林鄭は、中国政府を武力鎮圧の難しい判断に追い込んだ上で、今度は一転して自ら妥協案を持ち出し事態の収拾に乗り出した。
これで林鄭は「何も出来ない行政長官」から一転して、自らで主導権を握ることができる。

中国政府と習近平は簡単に林鄭の改正案撤回を拒否することも反対することも出来なくなった。
今さら公然と彼女の撤回表明を拒否すれば、それは直ちに中国政府と林鄭の完全決裂を意味する。
中国政府は自ら実力による事態収拾を計る以外になくなったが、経済衰退や米中対立の深まりなどの内憂外患に悩まされている現状で、香港に対する武力鎮圧に踏み切れるだろうか。

「逆撤回」もあり得る?
この原稿を書いている9月6日午前現在、中国政府は林鄭の改正案撤回に正式見解も反応も示していない。習政権は今、どう対処すべきか苦慮している最中なのだ。最後は不本意ながら改正案撤回を受け入れるかもしれない。もしそうなら、それは「林鄭クーテダー」の成功を意味する。

香港人の林鄭は、妥協によって混乱のさらなる拡大を食い止め、人民解放軍による血の鎮圧のような最悪の事態を回避しようとしたのではないか。

中国政府が林鄭の改正案撤回を受け入れたとしても、それが香港の抗議運動の収束につながるとは限らない。あるいは中国政府が林鄭の改正案撤回を「逆撤回」させて本格的な鎮圧に踏み切る可能性もないではない。

香港情勢からは依然として目が離せない。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190906-00010004-newsweek-int&p=4


PDF