10月22日、各国から要人が招かれ、天皇陛下が自らの即位を内外に示す「即位礼正殿の儀」が盛大に行われました。

知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記

 来月11月10日には、台風19号の被害を踏まえ延期された祝賀パレードが、さらに11月14から15日にかけて、「大嘗祭(大嘗宮の儀)」が行われます。

 この国家的な祭儀を前に、私たち日本人が最低限知っておきたい皇室の稀有なる歴史を、『世界史で読み解く「天皇ブランド」』の著者が解説します――。

大嘗祭と新嘗祭はここが違う

 新嘗祭は毎年行われるのに対し、大嘗祭は天皇1代につき1度だけ行われます。新天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を大嘗祭といいます。

 一般的に大嘗祭は新嘗祭の豪華バージョンというイメージがあるかと思いますが、じつは両者はその内容が異なります。

 いずれも、稲穂を天照大御神に捧げ、五穀豊穣を祈るということでは共通していますが、新嘗祭では、皇居の御田で天皇陛下自らが育てた稲穂を神に捧げるのに対し、大嘗祭では、国民が育てた稲穂を神に捧げるという点が決定的に異なるところです。

 国民が育てた稲穂をあえて使うのは、国民が神と直接に繋がることを天皇陛下が御祈りされるためです。大嘗祭は、天皇陛下が国民の安寧を祈る公的かつ国家的な祭儀です。国事行為ではありませんが、公的な性格を帯びた儀式であるために、公費が支出されます。

 今回、大嘗宮の屋根は予算削減のため、萱葺(かやぶき)から板葺(いたぶき)に変更されましたが、大嘗祭のような公的な儀式を倹約するのはいいことなのかどうか、大いに議論の求められるところです。

 また、大嘗宮について、「仮設」の建造物とする記述もありますが、そうではありません。神と繋がる祭儀を行う大嘗宮は真新しい御殿でなければならず、1度使った御殿は使い回しません。これは清浄を重んじる精神の現れであり、「仮設」という捉え方とはまったく違うのです。

 剥き出しの「黒木造」という皮つき柱が使われ、一見、粗末な柱を使っているように見えますが、これも、自然のままの真新しい木材を尊重するという視点で使われるものです。飾り気のない質素な大嘗宮には、日本独特の美学や歴史的な世界観

「天皇」を掲げた古代日本人の国際戦略

 現在、世界には27の君主国が残り、王(King)はいるものの、「皇帝(Emperor)」と呼ばれる人物は天皇陛下ただ一人です。

 国際社会において、皇帝である天皇は王よりも格上と見なされます。ただし、これは慣習的かつ儀礼的なものであり、法的なものではありません。序列が公式に定められているわけでも決してありません。

 「王の中の王たる存在が皇帝」であったという歴史の一般理解の上で、皇帝としての地位が尊重されるということに過ぎません。「皇帝たる天皇は他国の王の上座に座る」などという俗説が流布されていますが、そのような事実はありません。

 では、なぜ、天皇はそもそも、王ではなく、皇帝なのでしょうか。「天王」ではなく、「天皇」を名乗ったのはなぜなのでしょうか。

 「皇」は王と同じ意味ですが、光輝くという意味の「白」が付いています。「帝」には束ねるという意味があり、統治者を指す言葉です。糸偏をつけた「締」は文字通り、糸を束ねるという意味です。従って「皇帝」とは「世界を束ねる光輝く王」という意味になります。

 「皇帝」の称号を最初に使ったのが秦の始皇帝でした。

 中国皇帝は各地の王を従えていました。中国の王は皇帝によって、領土を与えられた地方の諸侯に過ぎません。中国皇帝は日本の天皇に対し、そのような一地方の臣下という意味で、「倭王」の称号を授けていました。

 7世紀、日本は中央集権体制を整備し、国力を急速に増大させていく状況で、中国に対する臣従を意味する「王」の称号を避け、「天皇」という新しい君主号をつくり出しました。皇国として、当時の中国に互角に対抗しようという大いなる気概が日本にはあったのです。

 608年、聖徳太子が中国の隋の皇帝・煬帝に送った国書で「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が敬いて西の皇帝に白す)」と記されていました。『日本書紀』に、この国書についての記述があり、これが主要な史書の中で、「天皇」の称号使用が確認される最初の例とされます。

天皇を「日王」と呼ぶ韓国の悲哀

 遣隋使の小野妹子が遥々、海を渡り、隋の都・大興城(現在の西安)へ赴きました。その時、携えていた有名な国書があります。「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無しや、云々)」の国書です。

 この国書に対し、煬帝から返書があり、さらに、その煬帝の返書に対する返書として、日本から送られたのが、上記の「東天皇敬白西皇帝」の国書です。

 日本は「倭王」という中国皇帝に臣従する諸侯という称号を拒否して、「天子」や「天皇」と明記して、国書を差し出したのです。

 7世紀後半の第40代天武天皇の時代には、「天皇」の称号が一般的に使われるようになり、孫の文武天皇の時代の702年に公布された大宝律令で、「天皇」の称号の使用が法的に定められます。

 ところで、韓国は天皇陛下を「日王」と呼びます。朝鮮時代には、「倭王」と呼んでいました。中国皇帝に服属する朝鮮王が中国皇帝と対等な「天皇」を認めてしまうと、朝鮮は日本よりも下位に置かれてしまうことになるため、「天皇」を頑なに拒み続けたのです。

 文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長が2019年2月7日、ブルームバーグのインタビューで、従軍慰安婦問題について、天皇が謝罪すべきと発言しました。

 日本のメディアでは、文議長の発言を「天皇」と訳し変えて伝えていますが、文議長は実際には、「天皇」とは言っておらず、「王」と韓国語で言い表しています。

 22日の「即位礼正殿の儀」には、韓国から、李洛淵(イ・ナギョン)首相が参列しましたが、日本国の君主を侮辱する韓国は本来、このような場に来るべきではありません。

「皇帝」ではなく「天皇」と称した理由

 では、なぜ、天皇は「皇帝」と名乗らず、「天皇」と名乗ったのでしょうか。中国皇帝に対抗するならば、同じ「皇帝」でよかったのではないでしょうか。

 中国の神話では、「天皇(てんこう)」・「地皇(ちこう)」・「人皇(じんこう)」の3人の伝説の皇が世界を創造したとされます。その中でも「天皇(てんこう)」は最高神です。道教でも、「天皇(てんこう)」が崇められています。

 7世紀半ばに君臨した唐の第三代皇帝の高宗が「天皇」を名乗ります。なぜ、そう名乗ったのかは謎とされていますが、一つの解釈として、高宗は道教に強く影響を受けており、「皇帝」を越える最高存在として、「天皇」を考えていたのではないかと見られています。

 720年に完成した『日本書紀』では、聖徳太子が煬帝に送った国書(608年)で「天皇」が使われていたと書かれています。これは後追いで創作されたものとする説があります。この説では、日本が「天皇」を使う以前に、中国で既に高宗が「天皇」を使っており、これに触発され、日本も「天皇」を使いはじめたとされます。

 高宗の在位期間の649~683年と「天皇」称号の確立時期がきれいに一致することからも、この説は有力であり、『日本書紀』が後から、国書原文で使われた称号を「天皇」と書き換えたという可能性は極めて高いでしょう(「天皇」後追い説)。

 逆に、日本が608年の段階で「天皇」を使い、その後に高宗が「天皇」を名乗ったという可能性は極めて低いと考えられます。

 「天皇」の称号が使われる以前、日本の君主は「オオキミ(またはオホキミ)」や「スメラミコト(またはスベラギ、スベロギ)」と呼ばれていました。「オオキミ」は漢字で「大王」と書き、史書にも記され、一般的に普及していた呼び方でした。

 一方、「スメラミコト」は格式ばった言い方で、「オオキミ」の神性を特別に表す呼び方でした。謎めいて儀式的な響きのする「スメラミコト」が何を意味するのか、はっきりとしたことはわかっていませんが、いくつかの解釈があります。その代表的なものが、「スメラ」は「統(す)べる」、つまり統治者を意味するという説です。

 この他に、神聖さを表す「澄める」が転訛したとする説もあります。「ミコト」は神聖な貴人を表します。

 「スメラミコト」に匹敵する漢語表現、つまり当時の国際言語を探し求め、宗教的かつ神話的な意味を持つ「天皇」がふさわしいと選定されたのではないかと考えられます。

欧米人はいつ、天皇を「エンペラー」と呼んだか

 では、世界の人々は「天皇」が中国皇帝に対抗する称号であったということを理解した上で、天皇を「キング」ではなく、「エンペラー」と呼んだのでしょうか。

 結論から言って、理解していました。欧米人は天皇を17世紀末から「エンペラー」と呼んでいました。

 江戸時代に来日した有名なシーボルトら三人の博物学者は長崎の出島に因んで「出島の三学者」と呼ばれます。

 「出島の三学者」の一人で、シーボルトよりも約140年前に来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルという人物がいます。ケンペルは1690年から2年間、日本に滞在して、帰国後、『日本誌』を著します。

 この『日本誌』の中で、ケンペルは天皇を「皇帝」と書いています。1693年頃に書かれたケンペルの『日本誌』が、天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられています。

 ケンペルは日本の事情に精通しており、「天皇」の称号が中国皇帝に匹敵するものであるということをよく理解していました。そしてケンペルの『日本誌』が普及したことで、天皇が「皇帝」と呼ばれることがヨーロッパで定着しました。

 一般的な誤解として、天皇がかつての大日本帝国 (the Japanese Empire) の君主であったことから、「エンペラー」と呼ばれたと思われていますが、そうではありません。1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布時よりも、ずっと前に、天皇は欧米人によって、「エンペラー」と呼ばれていたのです。

 世界に唯一残るエンペラーとしての天皇は世界史の中で見てはじめて、その奇跡を理解することができます。

 ヨーロッパでは、フランス革命などで、人々が君主を殺しました。中国でも、コロコロと王朝が変わりました。ところが日本の歴史は有史以来、天皇家の王朝一本で、変わることなく、今日まで続いています。これは世界史における奇跡です。

 このような天皇を戴く我々日本人は現在、新しい御代において、大嘗祭などの重要な儀式を迎えようとしています。これを契機に、自分たちの君主やその歴史について考え、理解を深めていきたいものです。

宇山 卓栄


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