<慰安婦制度は日本軍による「性奴隷制度」だったことは学術的に立証済みなのに、なぜ今更このような論文が出てきたのか。いずれにせよ、米学会では撤回要求が殺到している>

2020年12月、ハーバード大学のJ・マーク・ラムザイヤー教授が、「太平洋戦争における性行為契約」という論文を“International Review of Law and Economics“に発表した。ゲーム理論を用いて日本軍「慰安婦」制度が単なる「商行為」であったことを示そうとする試みで、国際的な問題となっている。【藤崎剛人(ドイツ思想史)】 【動画】韓国、違法操業の中国魚船に機関銃700発 この論文は経済専門誌の査読を経て発表されたものだ。それにもかかわらず資料に書かれている内容とは真逆の帰結を導き出したり、出所不明の引用があるなど、学問研究に値するとはいえない初歩的な問題が指摘されている。 Fight for Justiceの緊急シンポジウム 日本軍「慰安婦」問題の解決をめざし、日本軍「慰安婦」制度に関する歴史的な事実関係と責任の所在を、資料や証言など明確な出典・根拠をもって提供する団体「Fight for Justice」が主催する緊急シンポジウムが3月14日に開催され、ラムザイヤー論文の問題点と、論文が発表されて以降に出された様々な抗議声明などが紹介された。以下では主にこのシンポジウムで論じられた内容について報告する。 <ラムザイヤー論文の内容とその問題点> ラムザイヤー論文の主旨は、ゲーム理論に基づいて考えれば「慰安婦」と慰安業者・紹介業者との契約は十分に合理的であり、従って「慰安婦」は性奴隷ではないというものだ。契約の合理性、つまり両者win-winである前提として、1)慰安所は主に業者によって運営される売春宿であり、2)軍は性病管理等の「良い関与」を行い、3)「慰安婦」の任期は短く高給取りであった。また、4)たとえ悪質な事例があったとしても、それは例外的な業者のせいであって、日本軍や日本政府、朝鮮総督府には関係ない、といったことが主張されている。 しかし、上記の1)~4)までは、「慰安婦」の性奴隷制を否定する歴史修正主義者特有の使い古された議論であって、ラムザイヤー論文で新しいのは、ゲーム理論を用いたことだけなのだ。ところが、彼は契約について論じながら、対等な契約だったことを示す具体的な契約書を一点も史料として提出できていない。すべて1)~4)を前提にした推測でものを言っているのだ。 一般的な「慰安婦」の契約では、当事者たる女性が主体的に業者と契約できることはほぼない。親族の借金のカタに売られる場合は親族が契約当事者だし、女性が未成年の場合は特にそうだ。またその女性がすでに売春業を行っていた場合、契約は業者と業者の間で取り交わされることになる。つまり「慰安婦」契約は事実上の人身売買契約なのだ。

杜撰な研究

当時の日本でも、人身売買は違法であった。 しかし裁判所は人身売買契約は娼妓稼業契約としては無効だが、金銭消費貸借契約は有効であるという判決を出したり、人身売買を禁じる国際条約で植民地を適用除外になっていたり、政府公認の芸娼妓酌婦紹介業があったりするなど抜け道があった。 ラムザイヤーは、1938年の「慰安婦」国外移送に関する内務省警保局長通牒で、「慰安婦」本人が警察署に出頭した場合に渡航許可証を発給するとされていることを「慰安婦」契約が対等なものであったという証拠としている。しかしラムザイヤーは、通牒にこうした規定があるのは日本軍「慰安婦」以外の売春業を取り締まるためのものであったことを無視している。この通牒は、むしろ日本軍「慰安婦」を海外移送目的人身売買の例外として処理した証拠なのだ。「慰安婦」契約は当時としても人権侵害であるはずなのだが、それを日本軍や政府が主導で行っていたのだ。 <ラムザイヤーの、実態に合わない娼妓像> ラムザイヤーは、「慰安婦」の契約書はひとつも提出することはできていないが、当時の日本の娼妓契約や娼妓の実態をもって、その根拠としている。一般的な娼妓と日本軍「慰安婦」の差異を無視していることは置いておくとしても、その娼妓の研究についても史料を改竄していることが検証で分かっている。 具体的には、奴隷的拘束であったことを示す娼妓の自由を奪う条項の契約書からの削除、主体的な廃業が難しかったことを示す21歳以下および28歳以上の娼妓の数の統計資料からの削除だ。これは端的に研究不正ということができるだろう。 さらに、娼妓が支出の多い職業だったことを無視して、単なる収入から娼妓は高給取りだったという結論を出している。実態は、娼妓は収入に対して支出が多く、前借金がなかなか返せず、むしろ借金が増えてしまう例も多かったという。それはラムザイヤーの用いている史料にも書かれているはずなのだ。 日本軍「慰安婦」についても、ラムザイヤーは高給取りだったとしている。その根拠として用いるのが、従来の否定論でもよく用いられる、東南アジアにおける「慰安婦」の給料の史料なのだが、支払いはハイパーインフレーション状態にあった軍票で行われていた。故郷へ送金できたとしても、その引き出しは当局によって規制されていた、という実態を無視している。 簡単にまとめると、上記1)2)4)は誤りで、日本軍「慰安婦」制度は、日本の行政機関や軍が主体的に整備した人身売買契約の「性奴隷制度」であったことが学術的に立証されている。3)に関しては、日本軍「慰安婦」は奴隷的拘束を受けており借金もなかなか返せず廃業も困難であったことが学術的に立証されているのだ。歴史修正主義者はすでに学術的には否定された事柄を繰り返し述べているだけにすぎない。ラムザイヤーもその一人なのだ。

三菱が作ったポジション

<なぜラムザイヤー論文が出てきてしまったのか?> 学問的に多くの問題があるラムザイヤー論文が学術誌の査読を通ってしまったことについて、深刻に考えている学者も多い。2月17日にはハーバード大学の歴史学部の二人の教授が論文の撤回要求声明を出し、翌18日には5人の研究者による研究上の不正を理由とした撤回要求声明が出ている。それ以降も、この論文を「懸念する経済学者たちのレター」にゲーム理論の研究者含む学者2000名以上が署名するなど、ラムザイヤー論文に批判が集まる一方、ラムザイヤーを学問的に擁護する声はない。 それでは、なぜこの論文が査読を通ってしまったのか。その理由は明らかになっていないし、学術倫理上明らかにすべきでもない。しかし、恐らく現在、当該経済誌において再検証が行われていることは推察される。 これまでは普通の研究者だと思われていたラムザイヤーが、なぜある時期から日本に関する差別的で学問的にも問題がある右翼言説のコピーを始めたのかもよく分かっていない。ラムザイヤーの立場は三菱グループの寄付を受けた「三菱日本法学教授」だが、これが直ちに三菱グループの政治的意図反映するわけではない。しかし何らかの影響を及ぼしている可能性はある。 またハーバード大学の地域研究が、歴史的に地域研究と深い関わりがある植民地主義に無反省であり、同盟国を分断支配する思考を潜在的に持っているという問題も指摘されている。 ラムザイヤー論文によって起こりうる変化 ラムザイヤー論文によって、日本軍「慰安婦」の性奴隷制を否定したい日本の右派は勢いづいているといえる。しかし北米の学術界では、かつてないほどの動きで「慰安婦」否定論に対抗する動きが巻き起こっている。ある意味では、日本軍「慰安婦」は日韓の問題だろうと余所事として考えていた北米の研究者を「覚醒」させたのだ。 日本側が世界で繰り返し仕掛ける「歴史戦」はすべて反発を呼んでおり、日本の戦時性暴力の問題がより認知され、追求されていくきっかけとなっている。それは、今回のラムザイヤー論文に対する反発が、迅速に拡大し、かつ学問的に正確なかたちで行われたことにも現れている。これは、歴史修正主義に対する運動が、これからも力強く続いていくことを示している。 今回の報告で、具体的な資料や書誌情報については字数の都合で紹介できなかったので、本格的な日本軍「慰安婦」制度の研究が知りたい人はFight for Justice(http://fightforjustice.info/)のページで補完してほしい。

https://news.yahoo.co.jp/articles/0b99fd340e4c60b813546be234fe3774a37e4000?page=3

ニューズウィーク日本版


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